沖縄戦で使用された防空壕(地下壕)とガマ
このサイトについて
  • 第二次世界大戦(太平洋戦争)のうち,国内で唯一地上戦闘が行われた沖縄本島には,多数の防空壕(特殊地下壕)が構築されました。
  • 事務局では,これらの遺構を後世に伝えるべく,特集ページ「沖縄戦の記憶(ガマと地下壕)」を編集・公開しています。
  • 本ページでは,上記特集ページで取り上げた中から,主な防空壕(ガマやアブ含む)を,三次元地形イメージ上にマークしたものです。
  • 当時,戦況がますますひっ迫する中,どのような地形環境の所に急ごしらえの防空壕を構築したか,を想像する一助になれば幸いです。
  • 各三次元地形イメージは,Kashmir3Dの機能を使用して作成しました。 各防空壕の位置(赤い円マーク)は,坑口の推定位置情報(緯度・経度・標高)を入力して,自動プロットさせているので,見えない場所はマークされていません
    従って,マークが表示されていなくても,向こう向きの崖の下に防空壕が存在する場合がありえます。
  • 個々の防空壕を表示するためのリンク集を用意しました。独立したウィンドウが開きます。使用後は,必ず[閉じる]ボタンをクリックしてください。
那覇市北部・中部

ここでは,国場川から北の範囲を取り上げました。
黄色から黄緑に塗られている場所は,主に「石灰岩台地」で,どこでも防空壕を掘れる環境にあったと思われますが,
やはり多く構築されたのは,琉球王国の首都であった「首里」とその周辺です。
  • 国場川の右岸に広がる那覇市域には,更新世中期頃のサンゴが固化してできた「琉球石灰岩」層が広く分布しています。
  • ガマをそのまま防空壕として利用したケースもありますが,鍾乳洞である「ガマ」に手を加えて構築された防空壕も存在しています。

首里城が構築された台地から安里川を隔てた南側の台地で,主な町名(字名)は,「識名(南側)」と「繁多川(北側)」になります。
個々の防空壕へのリンクはここにあります。

安里川の南側台地の北面で,首里城の対岸になります。
ほぼすべてが「琉球石灰岩」の「ガマ」をそのまま,あるいは若干手を加えて使用しています。
個々の防空壕へのリンクはここにあります。

「首里城」が建てられた台地の南面です。 イメージ図右端の「ナゲーラ壕」を除き,大部分が琉球石灰岩の壕です(後述)。
地上戦の当初,No.01壕は,陸軍の司令部壕として使用されましたが,戦況の悪化に伴い,南部糸満市の「摩文仁」に移設され,そこで終戦となりました。
首里城の周辺は,いわゆる城下町が構成されており,戦争当時多くの住民が住んでいたようで,規模の小さい住民用の防空壕が多数存在します。
個々の防空壕へのリンクはここにあります。

「首里城」台地の北面です。
「ナゲーラ壕(Na02)」は,琉球石灰岩の基盤である「島尻層(ニービ)」を人工的に掘削して構築されました。
個々の防空壕へのリンクはここにあります。

首里城が建設された石灰岩の台地には,西側に流れる川がいくつか存在しています。
台地付近の隆起運動により,川の侵食力はとても強く,いずれの川も深い谷が形成されています。
本イメージに存在する防空壕の多くは,「真嘉比川」と「安謝川」の遷急点付近のガマ(鍾乳洞)を利用したものです。
個々の防空壕へのリンクはここにあります。

「識名台地」には,西側と南西側に延びる二つの尾根が存在します。
「No.43(希望ヶ丘公園の壕)」の丘は西側に延びる尾根の末端部,「No.40(城岳公園の壕)」の尾根は南西に延びる尾根の末端部に該当します。
個々の防空壕へのリンクはここにあります。
那覇市南部

国場川の左岸も「海成台地」となっていますが,特徴的なのは一部を除いて「琉球石灰岩」が存在しない,ことです。
  • 大部分の防空壕は,「島尻層」の「ニービ層(小禄砂岩層)」を人工掘削して構築されました。
  • したがって,防空壕の入り口はニービ層が露出している崖の壁面,が大部分です。

本図では,「No.49(ペリーの丘の壕)」を除き,他の全ての防空壕は,「ニービ層」を人工掘削して構築されています。
「To01(海軍司令部壕)」は,本イメージ図中,最も標高の高い丘に構築されています。
個々の防空壕へのリンクはここにあります。

ここに図示した防空壕では,「No.62」と「No.X05」を除く,ほぼすべてが「海軍に関係のある壕」です。
本図の範囲では,「小禄中学校」校庭の下にあった二つの壕は,規模的に大きなものでしたが,すでに埋め戻されました。
個々の防空壕へのリンクはここにあります。

現在,那覇空港のある場所には,海軍の「小禄飛行場」が設置されていました。
本図の範囲は,飛行場の近くなので,「飛行隊の司令部(No.52)」や「海上の監視(No.57など)」などに使用したと考えられます。
個々の防空壕へのリンクはここにあります。
豊見城市

「To01(海軍司令部壕)」は,壕の入り口が豊見城市にありますが,掘削された防空壕の範囲には那覇市の一部も含まれているようです。
「To02(第二野戦病院壕)」については,最新の情報がありません。
個々の防空壕へのリンクはここにあります。
  • 豊見城市は,那覇市の南部に接する町ですが,旧小禄飛行場から離れるためか,海軍司令部壕と病院壕の他は,比較的小規模な防空壕だったようです。
糸満市

現在の糸満市域には,「南部戦跡」を代表する「防空壕」が数多く残されています。
その全てが,断層崖で仕切られた「琉球石灰岩」のガマ(鍾乳洞)を利用して構築されました。

南部戦跡の地は,数多くの断層によって切り裂かれていることがわかります。
断層が無かったら,与座岳の高さは300mを優に超えていたかもしれません。
与座岳を除く各断層崖の右側(北東方向)は,水平距離で500m程度ほぼ平坦地となっています。 洪積世から現世に掛けて土砂が堆積したものでしょう。
参考情報 : 日本の地質百選 > 与座岳
  • 糸満町,兼城村,高嶺村,三和村(真壁村,摩文仁村,喜屋武村)が合併してできた「糸満市」には,比較的規模の大きな防空壕が現存しています。
  • そのすべてが,琉球石灰岩のガマ(鍾乳洞)をそのまま使用したか,あるいは人工的に加工して使用したかのどちらかとなっています。
  • この地帯は,大地が隆起する過程でできた「断層崖(山脈状に続く丘)」が数多く存在し,崖と崖の中間は低地帯である,という構造を呈しています。
  • ほぼすべての防空壕は戦場となり,火炎放射器などで中まで焼かれ,多くの住民や将兵が死傷した,という事実があるのです。

本図の範囲に限定すると,「It18」のように低地部の防空壕は少なく,「It09」など比較的高い場所の防空壕が多い傾向があります。
これは,ガマ(鍾乳洞)の分布によるものかもしれませんが,戦争の激化によって退避して来たルートによるものかもしれません。
個々の防空壕へのリンクはここにあります。

「断層崖」の構造を東から俯瞰したイメージ図です。
本図を見る限り,「It_19」と「It_20」のように,岩稜のピーク近くのガマが防空壕として利用されたらしい,と想像できます。
個々の防空壕へのリンクはここにあります。
「真壁集落」にある「It09」と「It10」の近くには,大きな「ドリーネ」が存在します。
その一部がガマ(鍾乳洞)となっている可能性があり,現実に「アンディラガマ」などとして,陸軍に利用されました。
個々の防空壕へのリンクはここにあります。

摩文仁の丘にある「It23(陸軍・第三十二軍・司令部壕)」は,沖縄の陸上戦闘が実質的に終了した契機を作った防空壕です。
この断崖は,海面からの高さが90m程もある絶壁で,正に追い詰められての終焉だったことがわかります。
国道の両側に点在する「凹地」は,ガマやアブを利用したと思える「石灰岩採取場(跡地含む)」です。
沖縄本島で使用される建設資材として採取されたようですが,防空壕として利用されたガマなどがあるのでは,と危惧しています。
個々の防空壕へのリンクはここにあります。   日本の地形千景プラス > 摩文仁

糸満市内で1箇所だけ離れている防空壕です。元々,神社のご神体となっていたガマに,避難所として利用されたため,と言われています。
個々の防空壕へのリンクはここにあります。
南風原町

「Ha03(第三十二軍・司令部・津嘉山豪)」 は,住民や学生を大量動員して構築されましたが,
天盤強度に不安が出たとかで,短期間しか使用されませんでした。
「Ha01(沖縄陸軍病院壕)」は,米軍上陸直前から第三十二軍司令部が摩文仁に移転するまでの間,軍直属の病院として使用しれました。
個々の防空壕へのリンクはここにあります。
  • 那覇市北東部の東隣に位置する「南風原町」は,首里から比較的近い位置にあるため,軍用の防空壕が掘削されました。
  • 「Ha01」と「Ha03」は,地表に石灰岩が分布していますが,防空壕に適したガマが無かったらしく,下位の小禄砂岩(ニービ)を掘削して構築されました。
  • 首里に最も近い「Ha02(ナゲーラ壕)」は,川岸と言うこともあって,始めから砂岩を掘削して構築されました(那覇北部参照)。
南城市

「Na01(糸数アプチラガマ)」は,旧玉城村の村役場や「糸数城址」の近くにある,比較的巨大なガマ(鍾乳洞)です。
戦時中,陸軍の病院として利用されましたが,死傷者の多かった防空壕として有名です。
「Na02」は,「雄樋川」の暗渠部です。すなわち,鍾乳洞の中を「地上の川」が流れている,という珍しい場所です。
個々の防空壕へのリンクはここにあります。
  • 現南城市は,佐敷町,知念村,玉城村と大里村が合併してできた新しい市です。
  • 標高が100mを超え,かつ広大な琉球石灰岩の台地が分布する土地です。
八重瀬町

「Ya01」は,旧具志頭村の断崖を構成する岩稜が,東に尽きる位置にあるガマ(鍾乳洞)を利用した防空壕です。
「Ya02」は,この付近で最も高い台地に形成されたガマを利用した病院壕でした。
個々の防空壕へのリンクはここにあります。
  • 八重瀬町には,南部海岸に唯一と言っていいほどの浜(実際は,低い崖)が存在します。 元々鍾乳洞であった「雄樋川」の河口があるためです。
  • 高い絶壁が無いので海から近いというこの地(港川)において,「港川人」という南洋(ポリネシア?)由来の古代人の骨が発掘されました。
  • なお,八重瀬町は,旧東風平村と具志頭村が合併してできた新しい村です。
主な参考情報