直立不動で天を睨(にら)む 類型:その他(動物)
  猿岩(さるいわ) 長崎県壱岐市
奇岩の写真

猿岩駐車場からの近景

猿岩の遠景(正面から見ると猿の顔に見えません)
いわれ,特徴,エピソード等

 壱岐島の西部,黒崎に分布する「玄武岩」の「海食崖」の一部が,そっぽを向いた猿にそっくりなため,「猿岩」と称されています。

 壱岐観光ナビでは「気まぐれな自然の造形に驚かされます。」というコメントで紹介されています。

 壱岐島が誕生するいわれとして,「壱岐は生きた島なので流されないようにと八本の柱を立てて繋いだが,その柱は折れ残り,今も岩となって残っている。」 という神話が残っています。

 その八本の柱(“壱岐の八本柱(ハッポンバシラ)”の一つがこの「猿岩」です。

地形・地質の概要

 壱岐島の基盤は,新生代新第三紀中新世(約1,600万年前頃)の「勝本層」です。
 「壱岐の土台石」と呼ばれている砂岩・頁岩の互層で,場所により凝灰岩が挟まれています。
勝本町など,島北部の海岸線付近で観察することができます。

 新第三紀中新世の後期から鮮新世(約500万年前頃)になると火山活動が活発化し,「玄武岩,溶岩・火砕岩」,「アルカリ玄武岩,溶岩・火砕岩」と「安山岩,溶岩・火砕岩」が流出しました。
  猿岩を構成している岩石は,この年代の玄武岩の溶岩類です。

 最上部層は,第四紀更新世(チバニアン期)に噴出した「玄武岩,溶岩・火砕岩」です。

 事務局注:改訂に際し,地質名と年代を「産総研・地質調査総合センター,1/20万シームレス地質図」を参照して修正しました。

奇岩近傍の三次元地形イメージ

 「猿岩」の左側にある低地部分の地質は「勝本層」で,猿岩を含む右側にある台地の地質は「玄武岩」です。
 「阿母ノ滝」~「母ヶ浦」~「壱岐空港北部」にかけて,推定断層が存在します。  母ヶ浦(湾)が落ち込んでいるのは,断層によるものかもしれません。
周辺のジオサイトや観光地

☆ジオサイト
 ★初瀬(はぜ)の岩脈:壱岐島の南部,初瀬漁港の北東にある海岸に存在する岩脈で,地元では白滝と呼ばれています。 この岩脈は,高さ41mもの垂直に切り立った白い流紋岩の断崖に,黒い玄武岩が下から貫入してできたもので,白と黒のコントラストが鮮やかなのが特徴です。
 ★長者原化石層:壱岐島の南部,長者原崎に露出する層理のよく発達した珪藻土質の地層で,年代は「新生代第三紀中新世中期」とされています。 古くから植物の葉や淡水魚の化石が多く産し,1919年アメリカの魚類学者のジョルダンによって,魚類化石の新属・新種として「イキウス・ニッポニクス」が発見されました。 淡水魚ということは,日本海が湖であったことを物語っています。
 ★鬼の足跡:壱岐島の西部,牧崎の先端にある玄武岩の海蝕崖上の草原に,周囲約110mの馬蹄形状の穴が空いています。 これは海蝕洞の先端部が陥没してできた穴ですが,大鬼のデイが鯨をすくい捕るために踏ん張ってできた足跡,という意味で「鬼の足跡」と呼んでいます。

☆観光地
 ★黒崎砲台跡:猿岩の隣に位置する小高い丘には,当時東洋一の砲台であった「黒崎砲台跡」があります。
 1922年(大正11年)にワシントン軍縮会 議が開催され,その結果,英米日の主力艦の所有率を「5:5:3」とすることで調整が行われました。 日本は,当時建造中の戦艦「土佐」が軍縮の取り決め によって廃艦となり沈められましたが,その主砲がここ黒崎砲台に設置されました。 やがて太平洋戦争を迎えましたが,終戦まで一発も発射されることなく, 戦後に取り壊されました。
 現在は,跡のみが残る戦争遺産です。 砲身の長さ:18.83m,砲の口径:40cm,弾丸の重量:1ton,最大射程:35km
 ★湯ノ本温泉:約1700年前から湧出していたと伝えられており,神功皇后が応神天皇の産湯をつかわせたなどの伝承が残っています。 自然湧出の温泉としては島内唯一の温泉です。

交通概況

☆バス
 郷ノ浦港から壱岐交通バスの那賀・勝本・湯ノ本方面廻り郷ノ浦行き(循環)に乗車し,約20分の黒崎入り口で下車してください。
 郷ノ浦港へは,博多からのフェリーとジェットフォイルが就航しています。
 唐津からのフェリーは印通寺港に,博多からの厳原行きのジェットフォイルは芦辺港に着くので,それぞれ郷ノ浦港まで移動する必要があります。

引用情報,お断り

【引用情報】
 国土地理院 >
   地理院タイル(地形図,5m・10mDEM)
   国土地理院利用規約

【お断り】
 奇岩の地図は「奇岩近傍の三次元地形イメージ」に変更しました。
 地形図については,地図検索のページをご覧ください。