祝詞をあげて化石を降ろした話

 1944年当時,日本列島で最大のアンモナイトは神社のご神体だった。
 祝詞をあげてアンモナイトを降ろして東京大学の標本とした。
 このアンモナイトは1946年12月の目黒書店刊行「地球の科学」第1巻第2号の表紙写真となり,小林貞一氏が解説文を書いている。
 現代仮名遣いで再録する。

                     アンモナイト化石:東京大学総合研究博物館所蔵

 化石にはどこか魅力があるものと見えて,自分で持ちたがる人が多いので,譲り受けるのに色々な笑い話を残している。
 「素敵な菊面石が見つかりましたが惜しいことには村社に奉納されているので,ちょっと歯が立ちません」と会うなり,学生が告げたのは一昨年夏,学生の野外指導に牡鹿半島の萩浜へ行った時の事である。
 行ってみると,なるほど長径60cmの巨大な菊石が氏神様の横に鎮座ましまして,絢爛たる御光のように放射肋を発放している。
 漁村の長老に聞いて工事中に出土した地点もわかったので,まさに垂唾万丈,どうして敬神の念の厚い漁夫たちを納得させてこの宝物を神霊の世界から科学の世界へ降ろしてくるかが当面の研究問題であった。

 翌朝村長が一応の渡りをつけてくれたので,分校場の先生と学生と3人連れで部落会長の家を訪れたとき,村の顔役はいろりを囲んで相談中であった。
 研究のために大学の地質学教室へ寄贈してもらいたい旨を率直に懇望したが,研究はここでしてもらったいいだろうとか,後で調べる必要があったらまた来たらよいじゃないかと言った。
 しかし,お祭りに若い衆の力試しにしているので,既に端が欠けている。 ここに放置すれば遠からず破れてしまう運命にある代物だったのである。
 神様に一度お供えしたものだから,よそへ持っていくのは,もっての外だと言う年寄りの意見もあった。
 タイプ保存の必要などというような事がわかろうはずがない。 首を左右にしてなかなか埒があかないので,一応分校場へ引き揚げて昼にした。
  「やってもよいが,博士にしては若すぎる。ニセ大学教授が一儲けしようという魂胆じゃないか。」
 居残って部落会議の雲行きをしらべてくれた分校場の先生は帰って破綻の原因を教えてくれた。
 「髭でも生やさんと駄目ですよ」と学生に野次られて,先生はそれから商売道具の口髭を生やすことにした。
 ところで村民は髭でも生やして大家然とした先生になら会ってもよいという意志であることがわかったので,村長に斡旋を依頼した。
 その甲斐あって,余が発って3日後いよいよ宝物をさげる吉日が来て,氏子は参列し,特配の御神酒が祭壇に供えられた。

    牡鹿啼く牡鹿の国に東京帝大某たまたま科学研究に参り,世にも稀なる菊石を発見し云々
 神主は恭しく祝詞を挙げた。 かくてこのアンモナイトの巨大な遺骸は無事に帝都に運ばれた。
 このほどその研究を終えて新種と決定し,次の如く命名された。
 本誌が最初の学界お目見えである。 その名付け親,深田淳夫学士の記載の要点は次のごときものである。
  Perisphinctes (Perisphinctes) ozikaensis Hukada      (後略)

 なお,深田淳夫氏の記載論文は1950年に出版された。

 補遺
 その後,ちょっと口髭を生やした小林貞一氏の写真を深田淳夫氏より見せて頂いた。
 戦時中,東京大学理学部地質学教室が山形県大石田町に疎開したときのものである。
 なるほど下駄を履いて半ズボンだけれど赫々たる教授に見える。 なお戦時中故,写真に写っているどの人物も裸足で下駄履きである。
 また,アンモナイトの写真が雌型・雄型両方あるが,実際の標本は雌型であり,雄型は標本が大学に寄贈されてから石膏で作ったのだそうである。
 小林氏は深田氏のプライオリティ(先取権)を尊重して雄型の写真を「地球の科学」の表紙に掲載されたのかもしれないと思った。

 追補
 「アンモナイト の名前はPerisphinctes (Perisphinctes) ozikaensisです。 ozikensisと書く人がいて,原著者は気に入らないようすです。 まことにトリビアなれどこれはトリビアではないかもしれぬ」,というコメントをいただきました。 ありがとうございました。

【執 筆】 矢島 道子(2007年5月4日)