島原半島ジオパーク旅行記
(株)応用地理研究所 長田 真宏[原本:GUPI Newsletter No.76 2010年10月27日]
はじめに

 NHKの大河ドラマ「龍馬伝」の舞台となる長崎県。古くから中国や朝鮮さらにはオランダなどと交流があり,長崎市では今でも異国情緒溢れる文化や建物が見られます。亀山社中,端島(軍艦島),三菱重工造船所など近代日本の歴史がつまった長崎県ですが,自然的な景観の面でも見るべき物が多々あります。そのうちの一つが島原半島ジオパークです。

 島原半島ジオパークは2008年10月20日に日本で初めて,世界ジオパークに認定されました。このジオパークは「火山と人間」をテーマに「島原半島のなりたち」,「人々と火山の噴火」,「災害と復興」,「自然の恵み」の4コースからなり,コースに則した23のジオサイトから構成されています。

 半島のいたるところに「世界ジオパーク,日本第一号」の幟がたち,龍馬に負けじと盛り上がりを見せる島原半島。長崎市内から車で1.5時間ほど走ると,火山特有のなだらかな斜面と長閑な漁村の風景が広がります。今回は,広大な島原ジオパークの中から「雲仙温泉」,「島原の眉山崩壊」,「雲仙普賢岳噴火と火砕流災害」を中心に,私の見たジオパークを紹介したいと思います。


島原半島の位置図
島原半島の概要

 島原半島は長崎県の南東部に位置します。ちょうど胃袋のような形状の半島は,地元JAのブランドマークにもなっています。

 島原半島は雲仙火山によって形成された半島で,中心には普賢岳(1359.3m)を中心とする火山群が位置し,平成新山(1486m)はその中で最新の火山です。普賢岳は珍しい地溝帯(雲仙地溝)の中に形成された火山です。

 古くから温泉地として知られ,半島のいたるところで温泉が湧出しています。中でも半島西部の小浜,中央部の雲仙,東部の島原が有名で,小浜温泉は食塩泉,雲仙温泉は硫黄泉,島原温泉は重炭酸塩泉と,それぞれの温泉地で異なる泉質の温泉が湧いています。小浜温泉の源泉温度は105℃と日本で最も高温だそうで,それにちなんで全長105mの足湯が作られました。これも日本で最も長い足湯となります。


原のシンボル島原城(森岳城)。高い石垣が特徴である。                     島原周辺の南側には赤色土の大地が広がる。
雲仙温泉

 雲仙火山の普賢岳は島原半島の中心に位置する安山岩~石英安山岩の溶岩ドームで,雲仙火山の中央火口丘をなしています。その麓に雲仙温泉があります。雲仙は古くは女人禁制の霊山として栄え,当時は「温泉」と書いて「ウンゼン」と呼ばれていました。今でも温泉の噴気(ガス)や熱水が常に噴出し,硫黄泉独特の腐った卵の匂いがします。

 雲仙の中心には雲仙地獄という観光地があり,噴出する噴気や温泉の様相からこの名前が付けられました。噴出するガスやぼこぼこと湧出する温泉を目の前で見ることができるため,温泉卵を頬張りながら見学してきました。雲仙地獄は盆地状の地形をなしており,盆地は侵食によってできた地形で「地獄地形」と呼ばれています。侵食の段階によって原始期・幼年期・壮年期・老年期に区別され,幼年~壮年期にあたる新湯地帯では今でも活発に温泉が湧出しており,山頂に近くなるほど噴気と温泉の湧出量が大きくなります。老年期のところは侵食が進み,盆地に水を湛えた湿地帯になっています。


活発に湧出する硫黄泉                              温泉近くに自生するツクシテンツキ

 雲仙地獄の周辺では,軟らかい粘土化した岩石が見られます。手で簡単に剥がすことができ,触っているとぼろぼろと崩れて白い粉になります。その岩石の正体は温泉余土(オンセンヨド)とよばれる変質(温泉変質)を受けた岩石で,温泉や噴気と酸の影響で脱色し,白灰色の粘土状になっています。これらの岩石は中の鉄やアルミニウムが溶け出し,中身がすかすかになったものです。また,周囲にはツクシテンツキという植物が自生しており,これは強酸性の湿った土壌を好む九州特有の植物です。

 はじめに島原半島の泉質が場所によって異なることを述べましたが,これには地下のマグマ溜りに秘密があるようです。温泉は,マグマから放出されるガス(マグマ発散物)が上昇する時にその成分が地下水に溶け込むことで生成されます。ガスの成分は,地下水に溶けやすい物質から溶けていくため,塩化ナトリウム・二酸化硫黄・炭酸ガスの順に溶けていき,そのため異なる泉質の温泉が作られるようです。

 一般的な火山ではマグマ溜りは火山の直下付近に位置し,マグマは真上に上昇します。そのため,異なった成分の温泉ができても,場所が近いため結局は混合されてしまいます。しかし,島原の場合はマグマ溜りが西側にずれていて,マグマは東に向かって斜めに上昇していくようです。このため,温泉同士が混合することが少なくてよく分化されるため,同じ半島内でも異なった温泉が湧き出るのだそうです。島原半島に行くと一度に3種類の温泉が味わえるため,すこし得した気分になります。


今でも活発に湧出する温泉と噴気                       温泉変質によって白く脱色された岩石
島原の眉山崩壊

 島原は「近海の島へ渡る拠点」という意味で,有明海における交通の要地として風待ち・潮待の船で賑わっていました。坂本龍馬も初めて長崎に来たときにはこの島原に上陸し,歩いて長崎へ向かったといわれています。

 島原市は「水の都」として知られ,市内の60箇所から一日に約22万トンの地下水が湧出しています。この地下水を利用して昭和53年から市内に張り巡らされた用水路に鯉を放流しており,「鯉の泳ぐ町」としても有名です。最初はヤマメを放流したそうですが,水が適さなかったため定着しませんでした。その後,鯉の放流を始めましたが,今度は珍しさから鯉を採ってしまう人が現れ,なかなか定着しなかったそうです。

 いまでは住民にも観光客にも愛される存在となっているようです。ただ,最近ではサギによる鯉の捕食被害が多く,水が綺麗で透き通っているためサギにとっては良い餌場となっているそうです。


(左)島原市内の用水路の様子。 透き通った水の中を鯉が泳ぐ。 鯉は子供の日に放流される。
(右)江戸時代に作られた武家屋敷。 通りの中央に水路が作られ,生活用水として利用されていた。

 1792年(寛政4年)島原地方を火山性の大地震が襲い,島原西側の眉山東側部分で山体崩壊が起こりました。この山体崩壊により大量の土砂が有明海に流れ込み,海岸線は800mも海側に移動し,海に崩落した土砂により高さ13mにも及ぶ大津波が発生し,対岸の肥後国(熊本県)に押し寄せました。その津波は対岸の熊本県側と島原の間を3往復したそうで,「島原大変,肥後迷惑」として知られる未曾有の大災害となり,15,000人が亡くなったそうです。

 この災害後,島原は大飢饉に見舞われました。食糧難から人々を救うために,深江村(南島原市深江町)の名主である六兵衛が考案した「ろくべえ」という料理があります。保存食であるサツマイモの粉をお湯でこね,つなぎにやまいもを使って生地とします。その後は「六兵衛突き」と呼ばれる穴の開いた金属板から押し出して麺状にし,これを茹でて醤油味のだし汁に入れて食べます。素朴な味で,島原の郷土料理として知られています。

 他にも「いぎりす」や「かんざらし」という郷土料理があります。「いぎりす」という名前から外国伝来の料理のように聞こえますが,実際には海草の「いぎす草」を使った料理のことです。イギスが次第に訛り,「いぎりす」になったそうです。イギリスは,最初に黒いいぎす草を白くなるまで3,4回洗い,お湯に溶かして煮詰めた後,にんじん等を千切りにして固めた食べ物です。ぼそぼそと奇妙な食感の素朴な料理です。


(左)島原の郷土料理,「いぎりす」と「ろくべえ」。
(右)「かんざらし」。 冷やされたシロップの中に一口サイズの団子が沈んでいる。 お店によって味がちがうようだ。
雲仙普賢岳噴火と火砕流の災害

 1990年11月17日,休火山といわれていた普賢岳の山頂付近にある地獄跡火口とその近くの九十九島という名の火口が噴火を始めました。噴火は1995年5月25日までの約5年間続き,粘り気のある溶岩は溶岩ドームを形成しながら成長と崩壊を繰り返して,約2億㎥の溶岩を噴出しました。そのうち半分は火砕流や火山灰として飛散し,残り半分は溶岩ドーム(高さ約250m,東西1200m,南北約800m)として山頂に残り,平成新山と名づけられました。平成新山は小規模な崩壊が続き危険であるため立入りが禁止されおり,震度4程度の地震で崩れると言われ,現在も観測が続けられています。

 島原では,普賢岳の溶岩ドームの崩壊に伴い火砕流が頻発するようになり,合計で9,432回も発生しました。火砕流は,高温の岩屑・火山灰・ガスが一体となって,時速100km以上で山の斜面を駆け下る現象です。火砕流は雲仙普賢岳の噴火以来,日に日に到着距離を伸ばし,1991年6月3日には,死者・行方不明者43人,負傷者9人の大惨事を引き起こしました。被害者には,普賢岳を調査していたフランスの火山学者(クラフト夫妻)や報道・消防・警察などの関係者が犠牲となりました。9月15日には水無川に沿って流下した火砕流が直進し,大野木場(おおのこば)地区の大野木場小学校を焼失させました。

 大野木場小学校の校舎は被災した状態のまま保存されており,今でも火砕流の痕跡を見ることができます。火砕流の威力は凄まじく,水無川に面した校舎東側の窓ガラスは砕け散り,西側からも回り込んだ火砕流が入り込み,熱風により校内はほとんど焼けてしまいました。焼けてコンクリートの基礎だけになった廊下,熱によって歪んだ窓枠,教室内の机が散乱した状況を見るとその威力に驚かされます。


(左)平成新山。  今では山腹は緑に包まれている。ヘリコプターから種をまいて植林したそうだ。 周囲には炭化木が転がっていたそうだが今回は見つけられなかった。
(右)焼けた大野木場小学校(西側)。 火砕流被災時のまま保存されている。 火砕流の熱風の直撃を受け,窓はほとんど割れ,内部は荒れ果てていた。

(左)表面の溶けたタイヤの遊具。 タイヤは200℃で溶け,木は300℃で焼失すると言われている。
(中)大野木場小学校の校庭のケヤキ。 火砕流の熱風により一度は消失したが,次の年に見事に復活した。 火砕流の影響で幹は曲がったままである。
(右)大野木場小学校の東側。 熱風で窓は割れ,残ったアルミサッシも歪んでいる。

 また,たび重なる降灰と火砕流によって堆積した土砂は山腹斜面を覆い,そこに雨が降ると土石流(泥流)となって下流の地域を襲いました。特に水無川の曲流部から越流した土石流は三角形の被害区域を作り,安中三角地帯と呼ばれました。土石流による被害は1692棟にのぼりましたが,住民は全員避難していて人的被害はありませんでした。

 安中三角地帯はたび重なる土石流により,土地が約3m,厚い場所では5~6mも埋没しました。災害の初期には土砂の除去作業を行っていましたが,たび重なる土石流や降雨のたびに土砂を除去した箇所に水が集まり再び埋没することから,除去を諦めて土地を嵩上げする対策へと変わりました。嵩上げのための土砂は,河川や遊砂地に堆積した土砂と砂防えん堤の工事に伴い発生する土砂が利用されました。

 水無川では現在でも砂防えん堤や導流堤などの砂防工事が行われています。普賢岳は今でも危険な状態であるため,緊急時には近くの砂防みらい館へ避難できるような体制が立てられています。工事に携わる人たちは,危険と隣り合わせの状態で作業を行なっているわけです。

(左上)
 水無川には透過型のえん堤が設置され,今でも工事中である。

(右上)
 土石流被災家屋保存公園の様子。
 被災家屋が被災時のまま保存されており,1階部分まで土砂で埋まった家屋が見られる。

(左下)
 家屋の中の様子。家の内部は,粒径0.5m程度の岩石と土砂で満たされている。

おわりに

 ここで紹介した以外にも島原には普賢岳に関する資料館や博物館が数多くあります。今回は現地の女性ツアーガイドに案内をしていただいたのですが,彼女は実際に安中三角地帯に住んでいた方で,火砕流や避難所の生活や被災後の復興で起こった問題など当時の状況を詳しく聞くことができました。火砕流は夜になると中が赤く見えて大変綺麗なため,ものめずらしさに避難所の外に出て眺めていたそうです。このような被災者本人から体験談が聞けたのは,現地ならではの体験でした。

 島原の喫茶店でジオパークについて聞いてみると「最近,なにやらはじめたようですね」とまだまだ一般住民には認知度が低いようです。ジオサイトには解説の看板が立っており,見所や地形のでき方などの解説がわかり易くまとめられています。特に火山災害は現在も続いており,復興の取り組みが今なお行われています。

 災害の爪跡やその災害から立ちあがる島原の人々から,なにか力強さを学んだ今回の旅でした。火山以外にも千々石(ちぢわ)断層の断層崖地形や島原の乱の舞台となった原城,イルカウォッチングなど魅力的な観光地が島原半島ジオパークにはあります。